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切り切りMme

自作の切り絵を紹介する

相撲土産ー力士シルエット

「楠若葉盛り盛り萌えて陰深し」(斉藤裕子)

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「枯れ残る葉を放ちをり楠若葉」(細野恵久)

このうちの方は日々庭掃除が大変でしょうね。

「遠き世の風音をきく楠若葉」(水田清)

実家にも大きな楠がありその枝を使って父が鉄棒を作り、弟は毎日特訓。父は若い頃体操の選手だったもので、運動会にやってくるとこそっと大車輪を見せてくれました。そんな父の息子のはずの弟でしたが、逆上がりもできない始末で苦労したのでしょうね。その楠も切り倒され、私の折り畳み文机になっていましたが、さてあの嫁入り道具はどこへいったやら。楠を見ると半べそかいていた弟の顔が浮かんで来ます。

 

夏場所白鵬の一年ぶりの全勝優勝で終わりました。相撲が終わる度に、母との会話が痩せて電話の繋ぎを探すのに苦心していた看病を一切引き受けていた姉の苦労が今はないはずなのに、思わず「相撲終わったね」と労いたくなるのもおかしな話です。その頃は私の方は相撲嫌いの姑の事で手一杯で、相撲とは無縁でしたが、偶々友人のブルガリ土産の相撲切り絵を頼まれたのをきっかけに見だしたのですが、高齢の方々の相撲談義の由縁を今更に知る次第。

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Le bois du camphrier, dont l'odeur particulière persiste pendant plusieurs années, bénéficie de vertus insectifuges qui éloignent les mites. Pour cette raison, il fut longtemps utilisé par les malletiers pour la fabrication de malles destinées à transporter les fourrures3.

 

 

相撲土産ー取り組みと番付

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「遠き日の母の一言茄子の花」(大久保寛子)

一株78円で買った茄子の苗に三つ花が付き一つ目には小指の先ぐらいの実が見えだしました。「千に一つの仇はなし」の茄子の花と親の言葉ですが、さてちゃんとなるでしょうかしら。

「何事もらしくありたし茄子の花」(渋谷ひろ子)

ですが...

「一つ身に仏と鬼と花茄子」(柴田由乃

プランターに買って来た園芸用の土を肥料と混ぜて次なる野菜の苗用にスタンバイさせていましたら、フカフカして気持ちよかったのでしょうか、猫様の御不浄になっていました。そこに、五月ですね。ギラギラ光り輝く蠅がブンブン。誰が字をあてがったのか五月は格別にうるさいのでしょうかしらね。「五月蠅い」とは。仏心には中々なりませんが、花の色に癒されましょうか。

 

相撲の取組の空いた空間の部分に歴代力士の番付表から文字を切取り貼ってみましたが、取り組みの迫力がなくなり、平凡な構図になってしまいました。

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Du ciel à la mer, ce n’était qu’une infinie variété de bleus. Pour le touriste, celui qui vient du Nord, de l’Est ou de l’Ouest, le bleu est toujours bleu. Ce n’est qu’après, pour eu qu’on prenne la peine de regarder le ciel, la mer, de caresser des yeux le paysage, que l’on découvre les bleus gris, les bleus noir, et les bleus outre-mer, les bleus poivre, les bleus lavande. Ou les bleus aubergine des soirs d’orage. Les bleus vert de houle. Les bleus cuivre de coucher de soleil, la veille de mistral. Ou ce bleu si pâle qu’il en devient blanc.

 

 

相撲土産ー観客と取り組み

「十あまり数へて烏賊火増えもせず」(西村和子)

烏賊の不漁が深刻なようです。そう言えば、先日の新聞にはカツオの不漁も掲載されていましたが、原因は海水温の問題もあるようですが、中国船の乱獲は、ウナギ、サンマと日本伝統食材を根こそぎにしていっているように思えてきますが、怒らず食文化も進化するしかないのでしょうか。進化とは、どうなっていくことなのでしょうね。

「墨吐いてくぼめる腹や烏賊かなし」(岡田耿陽)

昔は、新鮮な烏賊を見かけると買って来ては、墨を取り出し、烏賊飯を作ったものでしたが、元々私自身は烏賊が苦手。知り合いは海の傍に住んでいたので、烏賊の塩辛を作っていましたが、自家製のは美味しいらしいですねっと、あの薄墨桃色の粘った風情を見るとご飯が進む人もあるのでしょうが、私はどうも,,,

「烏賊洗ふからだの中に手を入れて」(安藤恭子

何ともリアルな句で、充満する匂いが伝わって来そうですが、それで烏賊の不漁を嘆く人もあるのでしょうが、頓着ないのは伝統食から進化(?)離れつつある私です。

 

相撲の取り組み画像を見ていると、砂かぶり席やマス席の面々が見逃せずどうしもそれも切り絵に入れてみたく、やってみましたが、ゴチャゴチャして取り組みがボケてしまいました。作品作りにつれて、最近相撲をよく見るようになりましたが、マス席に有名人が映り、チラリながらすごいCMになっているのですね。角界は(も)知らないことだらけです。

 

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Les calmars constituent une ressource alimentaire indéniable, dont les principaux consommateurs sont les Turcs, les Japonais, les Italiens, les Espagnols, les Coréens et les Indiens.

Le corps peut être farci en entier, coupé en morceaux, en tranches ou en rondelles, cuisiné « à la romaine », « à l'armoricaine », etc. Les bras, les tentacules et l'encre sont aussi comestibles. Pour faire simple, les seules parties qui ne sont pas consommées sont le bec et la plume.

 

相撲土産ー力士と子供達

「回しつつ削る鉛筆捩花」(青木民子)

「捩花の螺旋階段風のぼる」(森景ともね)

「蟻登る文字摺草の螺旋階」(久保田由布)

久しく見かけなくなったと思いましたら、ポットに入って花屋さんで売られるご時世。畦には必ず見かけた花でしたが、どんな様子の花かは上記の句にて、写メのアップは不要ですね。文字摺草、文字摺、捩花というのだそうです。

「捩花とて天を指す一本気」(鈴木夫佐子)

「このままでいいはずはない捩花」(久津見風牛)

ですよね、っと切れる事務次官の会見で、官房長官曰くの「怪文書」の語義も真っすぐになるでしょうか。

「言ひ訳の多い一日捩花」(三角千栄子)

今日もお手てて繋いでお出かけとは、昨日の朝日朝刊声欄の82歳主婦の投稿「首相夫人って何なのですか?」は中々昭和ヒトケタの気骨を再認識です。

「捩じれずに咲くこと難し捩り花」(山口紹子)

 

力士は誰だかわからないのですが、相撲取り組みで画像検索かけた中から選んで切り絵にしました。少し回しの結び方が本場所とは違うようです。額は白い縁でしたので、着物柄の切り絵を型にしてカラースプレー掛けて塗り替えてみました。 

 

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“L'homme a été taillé dans un bois si tordu qu'il est douteux qu'on en puisse jamais tirer quelque chose de tout à fait droit.”

 

相撲土産ー和紙使いミニ

「どんより曇り卯の花腐しかな」(清水恵山

暦の四月は「卯の花月」。昔の人は、この頃に咲く卯の花を腐らせるような霖雨のことを「卯の花腐し(うのはなくたし)」と呼んだそうです。うちの家にも卯の花があったのですが、あの白さが好きで植えたのですが、どこへやら。

今日の折々の言葉「足音が畑の肥料となる」(ある父親

久しぶりの昨日の小雨を利用して、ポットでギュウギュウになったまだ双葉ですが、ピーマン、西瓜、トマトの苗を移植してやりました。食べる度に出る種を植えたものですが、さて実にまで至るでしょうかしら。今朝も雨だというのに、元気にしているかと眺めにいきますが、それだけで肥料になるものでしょうかしら。

「怠れば卯の花腐し容赦なし」(星野夢丘人)

雨で湿気が増すと、出ておいでになるのが、ナメクジ軍団。あのテカリとした足跡が葉の上に増えます。コーヒーの豆粕がいいとかですが、その上にきらりと筋が見えるとなると、何のことやら。

「卯の花腐し何をして気を晴らそうか」(原教正)

 

友人が毎年ブルガリアに居る主人のもとに出向くのに手土産を頼まれるようになってさて何年でしょうか。今年のミッションは「相撲」。以前に作った作品を見て、面白そうだからと頼まれたのですが、中々躍動感あふれる作品には仕上がらず苦戦中です。先ずは

「相撲取り組み」で画像検索をかけた中から選んだ写真画像と、空いた空間に浴衣柄を入れてみました。ケント紙より和紙の方が雰囲気が出るかと思いましたが、半紙は薄すぎました。

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Saviez-vous qu’une limace pouvait vivre six ans?  Oh, c’est ouf, ça!  Et un ver de terre ?  Il y en a qui atteignent les dix ans !  Waouw, dingue !    

 

 

「重ね切り絵ー妖精と蝶

「麦の秋遠きところに父のゐる」(石崎そうびん)

ひと昔前では、この季節になれば畑には、黄金色の麦が揺れ、嫌が上でも「麦秋」という言葉が浮かんだのでしょうが、二毛作などという言葉も聞かれなくなるのでしょうか。ふと、この「毛」は何なのか?と疑問が沸いて来ました。確かに「不毛」などという言葉があるのですから、「毛」という語にはhair以外の意味があるのですね。辞書によあれば、 「植物・地上に生じるものの総称」の意味があるとされています。それで、2種類の植物を育てるので二毛作ということになるのですね。

「麥爛熟太陽は火の一輪車」(加藤かけい)

我が誇らしき風景を黄金の国と勘違いされたというこの黄金を指すのは、稲であり、麦畑の黄金さはどこか欧州に広がる田園風景が似合い、この句から浮かぶのはゴッホの絵でしょうか。最近では、雑草も生えていない休耕田しか浮かばなくなるのも世の流れでしょうか。

「遠き日の麦踏む人は今はなき」(山口美琴)

先日の稀勢の里の踏ん張りには思わず拍手を贈ったものの、その後力尽きたかのように黒星が続きファンの肩も下がるばかりでしたが、やはり先場所の左肩損傷には勝てず休場となったようです。200キロの巨体のぶつかり合い、皆満身創痍なのでしょうね。しっかり治癒に専念下さい。麦のように、踏まれ踏まれてこそ、根は張り実り豊かに。祈るばかりです。

型染めように切った折に、重ねて切っていた切り絵が出て来ましたので、それをお背景に、妖精と蝶などの切り絵を散らしてみました。

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Le grain de blé qui pourrit dans la terre et dans la nuit, voit-il donc le soleil ? Non, mais il a la foi. C'est pourquoi il monte, par et à travers la mort, vers la lumière... Nous, nous sommes le blé de Dieu.

 

重ね切り絵ームーミン

胡蝶蘭花みな蝶やわれに舞ふ」(山口青邨

漸く、二年越しのうちの胡蝶蘭が咲きだしました。二年前の銀杏が舞う頃に百円で買い求めた苗が去年は一枝、今年は少し分岐して花数も増えましたが、冬場に葉が萎れたりして植え替えなどしたものですから、出遅れました。蝶が舞うとまはいきませんが、手塩にかけた分可愛いものです。

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胡蝶蘭いささかの怨なしとせず」(神尾季羊)

さあ、どうでそうね。今朝の「折々のことば」

「実に、射られるということがどんな意味か、私は今こそ知ったのである」

矢の気持ちなど微塵も想えないのも、一途に的を射る思いばかりが先行する所為でしょうが、ふと、先日の「フランケンシュタインの恋」のフレーズが思い出されます。花も同じく、見たさばかりが先行。神の存在も、我が身の頼みばかりが先行。思われ、望まれ、頼まれた側は堪ったものではないのでしょうね。

 

以前、リバティーの柄の切り絵下絵を型にして、カラースプレーで抜き取りした絵柄を背景にムーミンを散らしてみました。

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La flèche au centre de la cible, le résultat extérieur (l’arcte de tirer) n’est d’ailleurs pas ce qui compte.(Eugen Herrigel)