切り切りMme

自作の切り絵を紹介する

手ぬぐい染めー野菜&果物

「宇宙の底に しずかにすわって いると思う時がある この自分がまぼろし

私の眼にうつる人も ここにいる時はみじかく いない時の中に この時が浮かぶ」

                              (鶴見俊輔

先日、新聞記事の告知板に「鴨居玲の没後30年展」という案内を見つけ、最終日に間に合い行って来ました。北野坂に出向くのも久しぶりで地震後来ていなかったのか、モダンな教会が立っていてびっくりしました。景観とは不思議ですね。記憶の中に残った映像が根底に消えることなくあるようで、目の前には実際に見えるものしか映っていないはずなのに、記憶の中の映像が邪魔をするのですね。向田邦子さんが「眠る盃」の中で、「思い出とは頑固だ」と書かれておられるそうですが、一度脳に活写された映像というものは早々容易くは消えず、その建て替えられた建物が素直には脳の中に治もろうとしないのです。馴染むのには時間を要し、不安定感が募るばかりになってしまいます。何やら、完成した頃の住人の方々から声が聞こえてくるようでした。

そんな中、画廊に入って絵が目の中に入って来て、ふと思ったのでした。ひょっとすると、頑固なのは思い出だけじゃないのかもしれないと。さすが向田氏はセンスとウイットが効かれた方ですね。粋な表現が悪を押し出してしまうのでしょう。この頑固というのは凡人が述べると「固執」となるのでしょうか。そうしてそれがもっと激化すると、「固定観念」となるのでしょう。私の中では、画廊の中に入る前から、脳の中には鴨居玲という画像がしっかり出来上がっている訳ですから、飛び込んで来た眼前の物が余りにもかけ離れていると、一気に気持ちがドスンと音を立てるかのように沈んでいくのでした。もう少し、しっかり告知板を読んでおくべきでした。「作品が約40点」と見ていましたが、その前置きに「展覧会では洋画作品のほか、知人への手紙や交流があった画家の作品など」だったのでした。鴨居氏は30歳の頃から神戸市に拠点を置かれていたのだそうですが、晩年の苦悩する手記を展示することにどんな意味があるのか、北野の坂を登った疲れがどっさりと呼び戻って来たようでした。

早々に退出して三宮センター街を歩いていた時でした。まさに彼の顔がウインドーから覗いています。あれは、老舗風でしたが、宝石店だったでしょうか。彼の自画像が飾ってあったのです。サインはRey Camoyとなっていましたから晩年の作品だったのでしょう。神戸の 昔からお住まいの方の中には切っても切れない思い出深い方だったのだと改めて認識した次第でした。数点でも作品に触れられたのですから画廊主催の方には感謝申し上げたいです。ありがとうございました。

野菜や果物の断面デザインの円の大中小を並べましたが、それだけでは染まった部分が多すぎるかと、少し草花のデザインも散りばめました。カットした部分が多い型は、紗を引かないと糊置きが難しいですね。細い線が糊置きの段階で反り返り裏に糊がついてしまい柄が崩れてしまっています。再検討の余地ありです。

 

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Son rêve était insensé.  Mais ne sont ce pas les fous et les insensés qui font avancer le monde ?  et luis était guidé par son idée fixe : le possible n’était que le connu et le possible ne l’intéressait pas ce qu’il voulait, lui, c’était l’impossible.